土居中事件
まごころ広場 四国中央市の人権を守る真の会 |
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これは傍聴人の速記録を元にまとめたものです。細部の間違いはご了承ください。 【1】『事故報告書』の怪 平成20年1月18日付で、『事故報告書』なるものが、 村上正哲元校長の名前で、市教委に提出されています。 しかし、これは平成20年1月18日に作成・提出されたものではありません。 これより前に、超差別文書である『河村卓哉教諭の指導について』という文書が篠崎良治教頭を中心として作成され、市教委に提出されているのです。 それが、2月下旬のことです。『事故報告書』はこれよりも後に出されているのです。 つまり、『事故報告書』は、平成20年の2月下旬よりもあとに、すなわち3月に提出されているのです。 上記のことは、河村敏和元次長の証言から明らかです: 河村敏和元次長の証言を、くわしく検証してみることにしましょう。 |
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河村敏和証人尋問調書 弁護士M(水口) 弁護M それから、この1月16日の事件について、学校側に『事故報告書』の提出を求めましたか。 たしか求めたように思います。 弁護M いつごろ出てきたんですか。 ちょっと時間があったと思いますけれども。 弁護M 時間があったというのは、どれぐらいの期間のことを言ってるんですか。 分かりません。忘れました。 弁護M すぐに出てきたのか。1か月後なのか、2か月後なのか。もっと後なのか。 ちょっと忘れました。 弁護M それから、学校側のほうから、『河村卓哉教諭の指導について』という文書が出てきたことがありますか。 いつのころでしょうか。 ※
『河村卓哉教諭の指導について』という書面を見る。 弁護M これは出てきましたか。 はい。 弁護M 大体いつごろですか。 これは早い段階でなかったかなと思うんですけれども。 弁護M 教頭さんや校長さんの説明では、2月下旬と言っていましたけど、違うんですか。 あまり覚えてないんですけれども、時間・時期として、時期については余り覚えておりません。 弁護M この河村卓哉教諭の指導についてという文書と事故報告書という文書と、どちらが早かったんですか。 こちらのほうが早かったんでないだろうかとは思いますけど。 弁護M こちらというのは、今手元で見ている、「河村卓哉教諭の指導について」という方ですか。 はい。 |
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次は村上正哲元校長の証言です。
「インターネットでいろいろ書かれ出した」 というのは、2月下旬以降のことです。 村上正哲元校長は、水口弁護士の 「1月のときは、今言ったように、お互いの言い分が違う…、2月になると、石川周治先生の言い分になる…、2月下旬になると、インターネットの関係があるから、今言った河村卓哉教諭についてという文書を作った…。そういうことなんでしょう。」 と言う質問に 「えっ。・・・・」 と答え、 「インターネットにいろいろ書かれてましたから、そのことについては、学校としても苦慮してましたので。」 こう答えました。 2月下旬ということを認めたのです。 『事故報告書』は、河村敏和元次長が言うとおり、その後です。 まとめておきます。 『事故報告書』は、平成20年の3月に作成・提出された。 さて、そこで、その『事故報告書』なるものをよく見てみましょう。 「河村教諭が右肘で、石川周治教諭の左ほほを殴打する」と、デタラメを書いていますが、 ここでは、上記の報告書の中の、この文を取り出してみましょう。 |
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石川教諭は事故後すぐ安藤整形外科(土居町)で受診し、全治5日間の診断を受ける。 |
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この文書が、事故後すぐの1月18日にほんとうに作成されたのなら、何らおかしいことはありません。その時点では、ほんとうに「全治5日間」だったのですから。 しかし、この『事故報告書』は、1ヶ月以上後の3月に作成して提出されているのです。 石川周治教諭が、最後に安藤整形外科にかかったのは、1月16日のトラブルの日からちょうど3週間目の2月5日です。 つまり、2月下旬の時点では、3週間病院に通ったという事実は、もうはっきりとしているのです。 ならば、石川周治教諭がほんとうに「全治3週間」の怪我をしていたのならば、この書類も「全治3週間」と書くはずです。 なぜ、この、トラブルから一ヶ月以上たって作成されたこの『事故報告書』に、「全治3週間」と書いてないのでしょうか? 【2】市教委ぐるみの組織的犯行 すでに見てきたことはすべて横に置いて、この『事故報告書』のことだけで吟味してみます。 そうすると、次の結論が浮かび上がってきます。 すなわち、 『事故報告書』に「全治3週間」と書いてないのは、 「全治3週間」の怪我などしてなかったから です。そう考えると、もっとも合理的にすべての説明がつくのです。 この3月の時点では、一応3週間病院には通ったけれども、 石川周治教諭本人も、「全治3週間」だったとは思えてない のです。安藤医師が、そう言ってくれたわけではないのですから。 石川周治教諭は、その後、告訴することを決めます(5月)が、そのとき四国中央署の刑事から「全治3週間とちゃんと書いてもらえ」というアドバイスをもらって、またもや安藤整形外科に足を運ぶのです。 そうして、出されたのは、「3週間の通院証明」。 刑事から「これではまだ足りない」と言われて、もう一度安藤整形外科に言って、医師を説得し、ようやく「全治3週間」という追記をしてもらえました。あくまでも、 「全治3週間の診断書」ではない のです。 「3週間の通院証明書」に「全治3週間」と追記してもらったもの だったのです。 それにしても、それではなぜ、3月にもなってから、わざわざ1月18日の日付で『事故報告書』なるものを市教委に提出しなければならなかったのでしょうか? それは、この時点で、はっきりと 《事件化》 を、土居中学校幹部たちが意識し始めたということを表していると考えられます。 《事件化》するために、いろいろと準備が必要で、医師の「全治3週間」の診断書もその一つだし、『事故報告書』もその一つだったのでしょう。 しかし、トラブルのあった1月16日から1ヶ月以上もたって事故報告書をあげるのはおかしいので、日付は、トラブルの翌々日の1月18日にして、トラブル後すぐにそれを事故報告したように装ったのです。 ただし、これは市教委が絡んでいます。こうも簡単に、そんな代物が市教委に通るものなのでしょうか? これは、それまでの、 教育委員会と土居中、さらには同和団体との癒着関係がものを言った と考えられます。河村教諭は、このころご家族が法務局へ相談に行っていたそうなので、市教委としてはパワハラで訴訟に出られたときのことを考えていたことでしょう。 そのために、必要な対抗手段を講じていたと、こう考えられるのです。 『河村卓哉教諭の指導について』などといういかにも差別的な文書は、そのために必要だったのです。 どうですか。土居中で中心的に事を進めていく篠崎良治教頭と、その言いなりの教育委員会という構図が見えてくるでしょう。 篠崎良治教頭の後ろに土居の同和団体がいたから、こんな異常なことが可能になった のだと考えられます。 まとめておきましょう。 石川周治教諭は全治3週間の怪我などしていない。 そしてもうひとつ。 『事故報告書』他の差別文書は、篠崎良治教頭を中心にして組織ぐるみで作られた。 たいへんなことですね。これは。 たいへんなところですね。ここは。 |
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このようなサイトが出ています(2012年6月)。